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イベールの資料

ジャック・イベール
 ジャック・イベール(1890〜1962)は,皇紀2千6百年を奉祝して我が国に贈られた《祝典序曲》(1940)や《フルート協奏曲》(1932〜1933),交響組曲《寄港地》(1920〜1922),ピアノのための《物語》(1920〜1921)などの代表作によって知られています。しかし残念ながら日本ではイベールの資料がほとんどなく伝記などの書籍もありません。
 ここでは私が大学院の修士論文を制作するにあたって,調査したイベールの略歴を簡単にご紹介します。
イベールの略歴
西暦
年齢
主な出来事
1890
0歳
商品輸出の依託業務を行う父親アントワーヌ・イベール(1853〜1933)と高級官吏の娘であるマリグリッド・ラルティーグ(1863〜1934)の一人息子として,ジャック・イベールは8月15日にパリで誕生する。父親は趣味でヴァイオリンを弾き,母親は優れたピアノの腕前を持つ家庭環境であり,自然と幼少より音楽教育を受けることになる。
1894
4歳
ヴァイオリンを習い始めるが体が丈夫ではなかったので,長くは続かず母親にピアノを習い始める。
1900
10歳
才能ある画家である叔父のアドルフ・アルベールが住むノルマンディーの家でバカンスを過ごす。この家でイベールはモネ,ピサロ,トゥールーズ,ロートレックなどの偉大な芸術家たちと出会う。
1902
12歳
作曲に興味を持ち両親に隠れてデュボア(1837〜1924)とルベール(1807〜1880)の和声学を独学。そして歌曲や簡単なワルツを試作し,作曲家としての道を目指し始める。
1908
18歳
父親が仕事先で発送した商品が海難事故に巻込まれ,保険に加入していなかったことで大きな責任問題となる。経済的に窮地に追いやられたイベールは父親の仕事を手伝う傍ら,家族に知らせずにソルフェージュと和声学の小さなクラスに参加を申し込む。この時期,音楽の他に演劇にも熱中しポール・ムネ(コメディ・フランセーズの正座員)の演劇芸術の講議も受講する。家庭の経済的な問題を抱えたイベールはこの講議に勇気づけられ,多くの影響を受けたことよって,一時はコメディアンになる道を真剣に考える。しかし,この夢は両親の強い反対によって諦め,完全に音楽に没頭することになる。
1910
20歳
スペインの作曲家でありイベールの従兄弟にあたるマニュエル・デ・ファリャ(1876〜1946)とジョルジュ・スポークの勧めでパリ音楽院を受験する。
1911
21歳
パリ音楽院に入学しエミール・ペサール(1843〜1917)の和声学のクラスで学ぶ。
1912
22歳
アンドレ・ジェダルジュ(1856〜1926)の対位法とフーガのクラスに入り,イベールはダリウス・ミヨーとアルテュール・オネゲルとの交流を深め共に勉強や仕事をするようになる。ジェダルジュは二年の間,〈三人組〉を結成した彼らを定期的に自宅へ集めてプライベートレッスンを行い,「旋律線の優位」「均整的な形式感」「オーケストレーションの明瞭化」の三点を重視した指導をほどこす。
1913
23歳
ポール・ヴィダル(1863〜1931)の作曲法と管弦楽法のクラスに入る。家庭の経済的な問題がまだ解決していなかったので生活費を稼ぐためにイベールは映画の映写間にピアノで即興演奏をしたり,流行歌やダンスミュージックなどの作曲をする。これらの作品のいくつかはウィリアム・バーティの名前で出版されている。
1914
24歳
第一次世界大戦の始まり,軍人を退役となったイベールは担架兵兼看護人として志願し前戦に復帰する。この頃のイベールは作曲家として,まだ無名なままである。
1916
26歳
病いに侵され,またもや退役となる。しかしその後イベールは再び海軍に復帰し士官に昇級となり戦争が終わるまで務めている。
1919
29歳
イベールはフランスの作曲家にとって最大の登竜門であるローマ大賞のコンクールに応募する。年齢的に遅い応募ではあったがこの結果,カンタータ《詩人と妖精》によってローマ大賞を受賞し一挙に注目を浴びる。受賞とほぼ同時に画家ジャン・ベベールの娘であり彫刻家でもある,ロゼット・ベベールと結婚し共にスペイン旅行を楽しむ。この新婚旅行では従兄弟にあたるファリャを訪ねたり,バレアール島を訪れたりしている。
1920
30歳
ヴィラ・メディチスの研究生に指名される。この研究生はベルリオーズ,ビゼー(1838〜1875),ドビュッシー(1862〜1918)などの歴代作曲家たちに続く地位でもあり大変名誉なことである。
1921
31歳
妻と共にローマに向かい,フランス学士院の本拠地であるヴィラ・メディチスに滞在する。三年間に渡るこの留学期間の一年目にはイベールの最初の大作と言われている《レディング牢獄のバラード》が完成される。又,後の成功作となる《アンジェリック》の歌劇台本作家であり義兄でもあるニーノとカプリに滞在し,イベールの初のオペラである《ペルセウスとアンドロメド》の制作に取り組む。
又,娘のジャクリーヌが誕生する。
1922
32歳
シチリア島とチュニジアを旅行。砂漠を訪れた時に重い日射病に侵され地中海探索旅行から戻る。この時期に書き終えたピアノ作品《物語》や管弦楽曲《寄港地》によってイベールの名は大きく広がる。この《寄港地》はイベールがこれまでの旅行で体験した事柄や海軍時代の経験が如実に繁栄した,最も知られている傑作である。
1923
33歳
ローマでの留学生活を終えてパリに戻ったイベールは舞台音楽に興味を持つ。この時期ヴュー・コロンビエ劇場からシャルル・ヴィルドラグの喜劇《サモスの庭師》という付随音楽を委嘱される(実際には8年後に別の劇場で演奏された)。これを機会にイベールは様々な舞台音楽を作曲し,バレエ音楽《めぐりあい》も完成させている。
1925
35歳
イベールの初の協奏曲である《チェロと管楽器のための協奏曲》を書く。この作品は10年後に起こるイベールの協奏曲時代の模索の要因が残されている。
1926
36歳
ノルマンディー地方のアンドゥリー近くのロングマールに,わらぶき屋根の家を買う。この家は仕事部屋として使用し,長期滞在中にイベールはいくつかの主要作品を残している。
1927

37歳
本格的な舞台音楽である《アンジェリック》が初演される。このオペラは20年程の間に1000回もの上演をこなした成功作である。これによってイベールはフランス作曲家の地位を確保する。
1928
38歳
息子のジャン・クロードが誕生する。
1929
39歳
アムステルダムに旅行しラビーシュの劇《イタリアの麦わら帽子》の制作に取り組む。この作品は《室内管弦楽のためのディヴェルティメント》の原曲であり,イベール独特の舞台音楽と言える。又,《アンジェリック》がドイツで上演されることになりベルリンにも旅行している。
1930
40歳
パリのオペラ座で《イヴット王》が初演される。イベールはトリトン委員会と室内楽協会のメンバーに加わり現代音楽の支持者となる。
1931
41歳
《海の交響曲》を作曲する。この作品はイベール自身の希望で,生きている間に演奏されることはなかった。イベールはこの作品を通じて墓所として海を選ぶことを望んでいたようだ。
1932
42歳
パプスト監督の映画《ドン・キホーテ》の音楽を手がける。
1933
43歳
パリ音楽院の教育委員会メンバーに任命される。
1934
44歳
この時期,イベールの作風に新しい兆しが見え始める。1925年に《チェロと管楽器のための協奏曲》を書いているが、十年の年月を経て再び協奏的作品に関心を抱く。その始めに生み出されたの《フルート協奏曲》である。二十世紀におけるフルート協奏曲の傑作とも言われるこの作品は、フィリップ・ゴーベールの指揮とパリ音楽院管弦楽団、そして独奏フルートは巨匠マルセル・モイーズという豪華な面々によって初演された。
この協奏曲は独奏者ばかりでなく,オーケストラの各楽器と奏者の個性を十分に生かし、多彩な音色と高貴な表現力を持つイベール独特の世界を表現している。さらに後に作曲されていくイベールの協奏的作品の特徴である,独奏と管弦楽の協奏曲ではなく独奏を含めた管弦楽の協奏曲という作法を方向づけている。この書法は続いて作曲される《アルトサキソフォーンと11楽器のための室内協奏曲 》にも大きく繁栄している。又,この《フルート協奏曲》を書き終えてからのイベールは管楽器の作品を多く残す傾向となる。
1935
45歳
イベールはヨーロッパの各地を周り,自分の作品の演奏会を監督する。又,各地での自作オペラの上演に立ち会う。
1936
46歳
オペラ座の諮問委員会のメンバーになる。オネゲルと共にオペラ《鷲の子》を制作する。
1937
47歳
イベールはローマのフランス学士院(ヴィラ・メディチス)の院長に任命される。この地位に就任することは音楽家として歴史上初めてのことである。この仕事によってイベールは様々な分野の知識を要求されたので作曲活動の重荷となってしまうが,オネゲルとの二度目の共同制作である《カルディナル家の娘たち》を完成させている。又,パリ万国博覧会の際には交響楽団の副委員長に任命されるなど事務的な仕事が次々と増え,創作意欲は無くならないものの作品は次第に減っていく。
1939
49歳
第二次世界大戦が始まり海軍の予備役士官でもあったイベールはローマのフランス大使館の海軍武官へ召集される(フランス学士院の職務は継続)。
1940
50歳
日本の皇紀2千6百年を奉祝してフランス政府から依頼を受け,ドイツのリヒャルト・シュトラウス(1864〜1949),イタリアのヴィゼッティ(1900〜1978),ハンガリーのヴェレッシュと同様にイベールも《祝典序曲》を我が国に寄せている。この《祝典序曲》は山田耕筰(1886〜1965)の指揮と祝典のために組織された管弦楽によって歌舞伎座で他三曲と共に初演された。
ムッソリーニがイタリアを戦争に導くと同時期にイベールの家族は外交用の列車に乗ってローマを離れボルドーに到着する。そしてマルセイユの岬に住むと,イベールは海軍に復員させられるが《海の交響曲》などの音楽題材が有害とみなされ,ヴイシー政権によって職務を一時停職と処分される。
1942
52歳
マルセイユに亡命した国立管弦楽団によって舞台音楽《夏の夜の夢》が演奏される。又,1937年より手がけていた《弦楽四重奏曲》を再び取りかかり完成させたが,原稿を紛失している。
1943
53歳
ハープ奏者である娘のために《ヴァイオリン,チェロ,ハープのための三重奏曲》を書き始める。
1944
54歳
ドゴール将軍の臨時政府要請でパリに戻る。イベールは総裁政府の職務に復帰する。
1945
55歳
フランスラジオ放送の幹部より詔問会議委員に任命されるなど事務的な職務が増える。6月には国立管弦楽団とフランスラジオ放送の合唱団によってジャック・イベール音楽祭が開催される。第二次世界大戦が終わる頃には健康状態が思わしくないため作品はさらに少なくなる。
1946
56歳
ヴィラ・メディチスに戻りラジオ放送と舞台音楽のために数曲手がける。マルグリットのコンクールにおいて審査員長となる。
1948
58歳
映画音楽《マクベス》を作曲する。夏には南米を旅行しブエノスアイレスの演奏会で自作を指揮する他,《アンジェリック》の千回目の上演も指揮する。
1949
59歳
《オーボエと弦楽合奏のための協奏的交響曲》を書き上げたイベールはバレエ《純潔の勝利》と《ユニコーン》の制作に取りかかる。夏の数カ月はヴェルサイユの王妃大通りで過ごすが,秋には大病に侵され精神的に追いつめられる。
1950
60歳
《遍歴の騎士》がパリのオペラ座で初演される。夏にはアメリカに滞在し《コントラバス協奏曲》で名高いロシアの作曲家兼指揮者であるセルゲイ・クーセビィツキー(1874〜1951)から作曲講議を頼まれたり,《イヴット王》のアメリカ初公開に出席するなど各地に招かれる。
1952
62歳
娘のジャクリーヌが31歳で亡くなる。
1953
63歳
ケンタッキー州のルイヴィル管弦楽団のために《ルイヴィル協奏曲》を作曲する。
1955
65歳
3月にパリのシャンゼリゼ劇場にてジャック・イベール音楽祭が開催される。そしてイベールはフランスのオペラ芸術の再興をするためにパリ・オペラ座の総裁という重要な役職を任命される。
1956
66歳
イギリス放送協会(bbc)第三放送の十周年委嘱作品である《バッカナール》やフランスラジオ放送のための《モーツァルトへのオマージュ》を手がけ,フランス学士院のアカデミー会員にも選ばれる。
1957
67歳
イギリスへ旅行しロンドンで《バッカナール》の初演に立ち会う。そしてイベールの最後の管弦楽曲である《架空の愛へのトロピズム》を完成させる。この作品はレコードに録音されることなく1975年までの間,公開で演奏され続けたようだ。
1960
70歳
ヴィラ・メディチスを去る。
1962
72歳
2月5日の23時に心臓が停止しイベールはパリの自宅で亡くなる。ボストン交響楽団の75周年記念委嘱作品である《交響曲》は未完のままであり,1955年に完成されていた第一楽章が《ボストニアーナ》のタイトルで出版される。この作品はボストン交響楽団によって初演されている。
イベールは最期に「海の交響曲と共に出発する」と息子に言葉を残している。
2月9日教会式の葬儀が行われパッシー墓地の地下納骨所に埋葬された。ここにはフォーレ(1845〜1924)やドビュッシーも眠る場所である。

この略歴は1998年にフランスで出版された『イベールの作品カタログ』を基調資料としています。
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